『性別モナリザの君へ。』が思ってたのと違ったのと、「性別」ってなんだよ

『性別モナリザの君へ。』という漫画にはどうも公式略称が存在しないらしい。

タイトルに独自の単語が含まれているわけでもないので勝手に略すのも難しい。

感想の検索などがしにくいと思う。地味に不便だ。いいのか?こう……エゴサの便とか……拡散性とか……

長くてめんどくさいのでこの記事では仮に「モナ君」とか呼んでおこうか。やばいすごいださい。

 

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一言で言えば思ったのと違った。「思ったのと違った」だけで感想を終了してよいくらい思ったのと違った。

こいついつも思ったのと違ってんな。カノホモの時も言ってただろ。広告やキャッチコピーから公式が伝えたい情報を読み取る能力が著しく低いのかもしれない。思い込みが激しいのか? 

今回は何が思ったのと違ったのかというと、自分は広告で見た世界観の面白さに惹かれてコミックスを購入したのだが、世界観は話のメイン要素ではなく、あまり詰められていなかった。

 

一応雑に説明しておくと、モナ君の世界では、人間は無性別で生まれる。12歳頃から本人がなりたいと思う性別に身体が変化し、男女に分化する。……のだが、主人公の有馬ひなせは無性別のまま18歳の春を迎えた。それぞれ男と女になった2人の幼馴染と共に、変化はないが穏やかな日々が続いていくと思っていた。しかしある日、幼馴染の2人がそれぞれ告白してきて……!?(少女漫画背表紙あらすじ構文)みたいな感じだ。

あと「もしあなたに性別がなかったら、あなたは誰を好きになりますか?」というキャッチコピーが付いている。これがまたテーマを誤解させていると思う。

 最初に目に入る世界観やキャッチコピーが、あたかも異性愛至上主義、ひいては恋愛至上主義への問題提起、または性別・ジェンダーについての再考などを促しそうに見える(私にはそう見えた)のだが、実際にはそういった要素はあまり無いので、そのあたりを期待して読むと肩透かしになると思う。

 

そもそも1巻後書きに、作者の「美男からも美女からも告白されたい!」という思い付きから始まっていると書いてある。

無性別は「幼馴染♀→主人公」と「幼馴染♂→主人公」に状況的な差を作らないための装置でしかなく、性別や恋愛について深く掘り下げたいわけではないっぽい。いや、一応少しは考えているようだが、それは恋愛漫画として恋愛について考えているという意味で、セクシャルマイノリティとかジェンダーの話題に少しでも興味がある(専門などではなくても)人から見れば物足りないレベルだと思う。

また、2巻の後書きでは作者自ら世界観について「細かい事はどうでもいい、分かりやすい方で」「濃厚なSFがやりたいわけじゃない」と発言している。設定の面白さを求めて読みに来ている人は本来ターゲットではないのだと思う。

 

要するに、作者はただ三角関係のラブコメが書きたかったみたいで、私は前提から間違えていた。

だから世界観の面白さを楽しみたいという人にはこの話は向いていないと思う。私ならおすすめしない。

余談だがフォロイーに無性別フェチの人が居て、「無性別が男からも女からも性欲の対象にされる話が見たい!」と日頃から言っているので、その人向けだと思った。実際ファンらしかった。だからそういうのが見たい人は読んだらいいんじゃないでしょうか。

 

個人的には、世界観設定が無駄にSFとして面白そうに見えるので、意図せずSF目当て層を釣ってしまい、結果的に不満を持たれやすいのでは?と思った。だがざっと検索した限りでは肯定的な感想が多いので、私が一人で勘違いしていただけかもしれない。

また、私は恋愛漫画に興味が無いので、恋愛漫画として面白いのかどうかはよく分からなかった。 

 

以降はネタバレを含んだ感想である。

だが上記の通り私は客層ではなかったタイプなので、私がここで色々言ったところで所詮客じゃなかった奴の発言である。

 

 

さて、この話だが、上でも書いた通り作者が「細かいことはどうでもいい」「分かりやすい方で」と言っている。だが私には、そのスタンスが逆に話を分かりにくくしているように感じられた。

2巻後書き部分で作者が「分かりやすい方」を採用した例として挙げているのは、作中の「モナリザ」や『虫愛づる姫君』の扱いである。

 

モナリザというのはダヴィンチのあれだ。私は芸術に昏いので知らなかったが、モナリザは女性ではなく両性具有だという説があるらしい。両性具有の美は古くから「神が人間を男女に分ける以前の幸福なる統一体」と言われることもあり、ダヴィンチもこれを「完璧さと中立性という理想を体現した美」として深く愛していたという。……という話が冒頭の美術の授業シーンで語られ、無性別であるひなせはこれに対して「両性具有が"幸福"な統一体なら、何一つ持たない者(=ひなせ)は何になるの?」と独白する。

これについて作者は、「実際に幼少期が中性の世界でダヴィンチがモナリザに中性への思いをはせない気がする」としている。

 

また、作中でステレオタイプジェンダー観の押し付けに関わるりつ(幼馴染♀)の回想が入る際、授業で『虫愛づる姫君』の話がされている。これは按察使大納言姫君という毛虫大好き姫様が主人公の平安文学なのだが、原文でも「普通のお姫様は花や、虫でも美しい蝶などを愛でるものなのに、毛虫のような恐ろしい虫を愛でる姫君は変わり者である」というようなことが書かれている。

これを作者は「中性の時に虫を愛でても変じゃないからあの話にはならないだろう」としている。

 

『虫愛づる姫君』の方はまあ分かるとして、「幼少期中性の世界ならダヴィンチが中性の美に想いを馳せることはないだろう」という繋げ方には些か納得できないものがある。

ひなせは無性別のまま18歳を迎えているが、作中世界においてそれは珍しいことである。無性別のまま成人することも普通は無い。であれば、現実で「両性具有の美は素晴らしい」と主張することと意味合いは変わるにしても、「無性別のまま大人になることができるとしたら、それはなんと美しいか」といったような形で両性具有の美が尊ばれることは全然あり得るのではないだろうか。一種のロリコンショタコンみたいなもんだなこれ。

(ところで意図してやっているのかわからないが、作中と後書きの作者発言で「無性別」と「中性」と「両性具有」が中途半端にゴッチャになっている気がして混乱する。)

 

虫愛づる姫君に関しては、幼少期無性別世界観なら『とりかへばや物語*1あたりを引用すれば不自然さが減ったのではないかと思う。それはそれで「何故2人が性格に合わない役割を求められる方の性別を選んでしまったのか?」という疑問は生まれるものの、話自体が成立しなくなる『虫愛づる姫君』よりは違和感がないのではないだろうか。

 

ダヴィンチの話の方が顕著だが、作者が自分で設定した世界観についてあまり深く考えていない感じがする。

勿論世界観を詰めることが必ずしも物語の面白さに繋がるわけではないのだが、この話の場合根幹に関わる部分の世界観もガバガバなので、結構問題に感じた。

ダヴィンチや『虫愛づる姫君』の扱いから分かるとおり、モナ君では、本当に幼少期無性別の世界ならそうはならないだろうことを無視して現実の価値観をそのまま引用している部分が多い。そういう雑な引用を性別や恋愛に関する部分でもやっているので、恋愛漫画なのに作中の恋愛観がよく分からないという事態に陥っている。

 

作中で最初に起こる事件は、りつとしおりがそれぞれひなせに告白することだ。この時りつは「私がひなせを男にする」、しおりは「俺がお前を女にする」と発言する。

私は異性愛主義者ではないのでこの台詞を「うわキッツ」と感じる。だがこの台詞が出てくる時点では作中世界における恋愛観がよく分からないため、この台詞をどう受け取ればよいかがよく分からなかった。

 

現実世界を舞台にした作品でこういう台詞が出たとすれば、「このキャラクターは異性愛主義なんだなあ」という受け取り方ができる。しかし幼少期を無性別で過ごす世界観でこの台詞が出ると、別の疑問も湧いてくる。

例えば、作中世界において一般的に無性別の子供は恋愛対象になり得るのか?とか。

性別分化前の子供は恋愛感情を理解するのか?とか。

現実と同じように異性愛が基本と捉えられているのか?同性愛がどの程度一般的か?とか。

無性別が恋愛対象になり、且つ異性愛が一般的だった場合、恋愛対象として見ていた相手が自分と同性になったら恋愛感情が冷めるのか?とか。

そういう情報が全く無い状態で上記の告白シーンを見せられても、りつとしおりがどういうキャラクターで、どういう雰囲気でひなせに告白しているのかがいまいち分からないのである。よって、ウワァ!主人公が二人の幼馴染に告白されちゃってモテモテだァ!みたいなことより、えっ、これはどういう意味?どういう状況?どういう受け取り方したらいいの?という方が気になってしまい、話の流れにいまいち集中できなかった。

 

一応、作中の描写を見る限り、異性愛が一般的らしいということは読み取れる。また、りつが性別分化前の幼少期からひなせに好意を持っているらしき描写があるため、分化前に恋愛感情を持つこともあるっぽいし、分化前の子供が恋愛対象になることもあるっぽい。

しかしそのあたりの描写も、どうも現実の価値観を雑に引用した結果そうなっているように見えるものばかりで、いまいち腑に落ちない。

とりあえず「子を成せるのは異性間だから異性愛が強い」となるのはまだ分かるとしても、「そんなこと言っても、好きになった相手が同性になるってこともあるじゃん」というような話が、モナ君世界の一般人達の間で全く出てこないのは、世界観を考えれば不自然ではないだろうか?

 

一応、主治医の高山あずさ(♂)がひなせに対して「好きな方となりたい性別が違う」可能性を考慮し、「二人の性別と君の性別は関係ない」とアドバイスするシーンはある。しかし作中に実際に同性愛カップルは登場しないし、メイン3人以外のキャラクターは異性愛を「普通」と見なすような言動しかしていない。

ひなせ、りつ、しおり以外にもクラスメイトのサブキャラ達が登場するが、彼彼女らのデザインや言動も現実世界を舞台にした作品でも通用しそうなものばかりだ。

例えば長髪の男子生徒とか、女が良くて女を選んだけど女子制服がスカートなのは嫌だとか、男性的な言葉遣いの女子生徒とか、その逆とか、そういう存在は出てこない。

一応「さばさばした性格の女子生徒」とか「見た目はボーイッシュだが好きなものはガーリーな女子生徒」くらいは見つかったが、普通にキャラクターのバリエーションの範囲に思える。

 

強いて言えばりつの過去設定にはそのあたりの問題が多少書かれている。

 りつは幼少期、活発で運動神経が良いことから周囲に「きっと将来は男の子」と言われ、可愛いものが好きなのに「かっこいいんだから、こっちの方が似合う」と男児的なデザインの物を勧められ、違和感を持っていた過去があるキャラクターだ。それを「りつだって、可愛いの似合うよ」と言ったのが過去のひなせで、これがりつがひなせを好きになった理由であり、りつが自らの性別として女性を選んだ理由だ、ということが作中で示されている。

ただこれは、りつ自身は「可愛いものが好きだから女を選んだ」という既存のジェンダー観に特に反しない選択をしていて、単にひなせを好きになる理由付けのエピソードと見た方が自然な気がする。

そもそも「活発で運動神経が良いのは、男性的な特徴だ」という、りつを抑圧していた価値観自体、生まれた時点で身体的性別が決まっている現実世界の環境だからこそ生まれるものではないんだろうか。

幼少時を無性別で過ごす筈の人々が、性別を選択した途端現実世界のジェンダー観に沿うような言動・ファッションをすること自体おかしいではないか。モナ君世界における大人達もかつては無性別であった筈なのに。

マニッシュな格好をしたいけど性別は女でありたい、フェミニンなものが好みだけど性別は男でありたい、と思う子供の存在は、現実世界よりよっぽど自然な筈ではないのだろうか?

 例えばりつが「テニスを極めたいから、身体能力的に有利な男を選びたい。でも女の体の方が形が好みで、どっちにしようか迷う」みたいに悩むなら、割と分かるのだが。

 

 

こういった細かい点が気になってしまうのは、この作品が、というより作者が、「身体の性別」と「身体の性別に対する違和感の有無」と「ファッションや言動の好み」と「恋愛対象の性別」と「恋愛対象の有無」と「性欲の対象の性別」と「性欲の対象の有無」をゴッチャにして考えてしまっているからだと思う。

一気に色々並べると私も混乱するので一つひとつ整理してみる。

 

1つめ、身体の性別。これはそのまま女性器と男性器どちらを、或いはどちらも、持っているか、または持っていないかということだ。

2つめ、わざわざ「性自認」ではなく「身体の性別に対する違和感の有無」という書き方をしたのは、私がトランスジェンダーではなく、性自認という言葉を理解しきれていないから、私が今思っているのと違う意味を含んでしまうことを避けたくてそうした。

3つめにファッションや言動の好み。フェミニン(この語を使うこと自体どうなんだって部分もあるが)だったり、キュートだったり、ラブリーなものを好むことと、自分が女性であると考えることは別だ。逆も然り。オネエ言葉を使う男性が、女性になりたいとは限らない、というのもこれだ。

4つ目以降の4つは分かりやすいだろうが、恋愛対象及び性欲の対象が「どの性別か」までは考えが及んでも、「恋愛対象及び性欲の対象が無い」というパターンはたまに忘れられるので、敢えてくどいが分けて書いた。また、恋愛対象と性欲の対象は別であることも忘れるべきでない。恋愛対象は存在するが性欲は向かないとか、その逆も有り得る。私自身にはどちらも存在しないためにまとめて考えてしまう時があるが、別だ。

 

私はこれらは全て別個の事柄であると考えている。しかし、これらを(全てではないにせよ)ゴッチャにしている人は、実際かなり多いと思う。特に3つめは、ジェンダーやらセクマイやらに関心がない人からは1・2と、関心のある人でさえ時折2と、ゴッチャにされる傾向を感じる。*2

この作品で直接関わってくるのは「身体の性別」「ファッション・言動の好み」と、それから恋愛対象と性欲の対象をゴッチャにして「性愛の対象の性別」、この3種あたりだと思う。ただ、見ている感じだと先に挙げたものの全てを混同していると思う。

 

そもそも、「性別がなかったら、誰を好きになるか」という問自体、なんかうまいことを言っている風だが、おかしいではないか。

そりゃ、人類は皆異性に性愛*3を向けるものだと一片の疑いもなく信じているような人たちにしてみれば斬新なのかもしれないけど、根本的には、自分の身体の性別と、恋愛対象の性別と、性欲の対象の性別と、そもそもそれらを取るかどうかは関係ない。傾向としてヘテロロマンティック・ヘテロセクシャル*4が多いというのが事実だとしても、そうでないパターンは普通に存在する。

 

作中ではどうも、ひなせが無性別のままであることと、ひなせが恋愛感情を理解していない(=りつ・しおり双方に対して友人としての好意しか持っていない)ことを過剰に結びつけているように見える。

まあそれも一理あるが、現実には別に、「身体の性別」に対して「違和感が無く」、その上で「恋愛対象を取らず」、「性欲の対象が無い」という人が存在する。だから、まるで「恋愛感情(とそれに付随する性欲)(=性愛)を理解できないから、ひなせはいつまでも性別が無いのだ」みたいな書き方をされると、いやそうじゃねえだろという気分になる。

 

作中では(直接同性愛を指す単語が出ないのと同様に)アロマンティックとかアセクシャルという単語は出てこない。ただ、あずさがひなせについて分析するモノローグでは、アロマンティック・アセクシャルを指していると取れる部分がある。

 

今までのカウンセリングで、ひなせくんに性的欲求が一切ない事はわかっている。それに伴って恋愛感情も芽生えてはおらず、それへの理解もあまり持ち合わせてはいない

したがって今のひなせくんに、友達としての好き以上の感情が生まれる可能性は極めて低い

その中で二人から選ぶ、というのは、今日のディナーを大好きなステーキにするかシチューにするか迷うことと大差なく、「二人とも好き」は嘘ではない

そして今、食器の選択を求められている。フォークかスプーンか――勿論「持たない」という選択肢もあるにはある…が(コミックス1巻より引用、句読点は筆者による)

 

この部分、アロマンティック・アセクシャルの存在を知っていれば、おそらくひなせもそうなのだ、と理解すると思う。多分。*5

しかし、こうアロマンティック・アセクシャルを想起させるような説明をした上で、「ひなせが無性別であり」、且つ「恋愛感情と性欲を持たない」という話を同時にされると、なんか現実のアロマンティック・アセクシャルは精神的に無性別なのだ、みたいな誤解を招くのではないかという気がする。

まあ別にそれをテーマにした作品でもないのに誤解を招くってなんだよ、自分の属性に配慮しろってか?アァン?お気持ちか?って言われると、まあその通りなのだが、でもそういう誤解をされたら嫌なので、違うぞ、とここで言っておく。

 

また、作中ではひなせに性嫌悪の傾向があるかのような描写が散見される。

りつとしおりの告白に対して多少なりとも嫌悪感を持っている他、しおりの男性性を意識して怯えるような描写があったり、今回買ったコミックス2巻分より後だがりつの下着姿を見て気持ち悪いと感じているシーンがある。

確かに恋愛感情や性欲の対象を取らない人が、同時に性的なものを嫌悪するというパターンはあるが、必ずしもそうではない。

いや、どうも、見た感じでは性嫌悪を併発しているようなアロマンティック・アセクシャルは割と多いみたいだけど、定義上はそうでない人も存在する筈だ。少なくとも私は性嫌悪ではない。

 

それから、酷いなと思うのが、先に引用したあずさのモノローグの直後に明かされる、「準モナリザ症候群」の存在だ。これは、モナ君世界における「無性別の身体のまま20歳を超えて生きたものは未だに存在しない」現象の名前だ。

これは、メタに言えば三角関係を盛り上げるための舞台装置で、しおりの行動原理に関わっている。

しおりは兄である高山あずさの電話を聞いて、たまたま準モナリザ症候群のことを知ってしまう。そしてひなせに死んでほしくないがために、ひなせに告白する。自分の告白をきっかけにあわよくば女性に、若しくは自分への反発から男性になってくれれば、という動機である。

しおりの告白の台詞が気持ち悪いのはこういった動機から来るものであり、またしおりが好きなのは現在の無性別のひなせであり実は心から女性になってほしいわけではない、という要素も、ラブコメとしてはおそらく重要なのだろうが、私にとってはそのへんは割とどうでもいい。

私が思うのは、無性別であることと恋愛感情及び性欲が無いことを結びつけて語った上で、そういう人間は成人前に死ぬ、という設定が、普通にめっちゃ酷くない?ということである。

まあ現実の私は性別があるけれども、果たしてモナ君世界に生きていたら、もしかしたら死んでたんじゃないだろうか。こわ。

これ、実際恋愛感情や性欲が他者に向く人達から見てどういう設定に映るのだろう。自分は死なないし関係ないと思うのだろうか?それとも、生まれた時点で性別が無かったら確かに自分にも関係あるかもな~と思うのだろうか?

後者なんだったら、キャッチコピーの「性別が無かったら誰を好きになるか」というのも部分的に正しいのかもしれない。しれないけど、でもやっぱり自分の性別と恋愛感情と性欲の対象は別じゃないか。腑に落ちない。

 

と、このように、世界観が雑で素直にストーリーを楽しめないと同時に、なんか意図せず殴られているような気分になる漫画だった。

まあ半分くらいは被害妄想だと思うが、現時点ではやはり描写が雑だ、という感想にならざるを得ない。

まだ完結していないのでどういう結末にするのかは分からないが、少なくとも作者の発言を見るに私に都合のいい感じの展開にはならないであろう。

色々雑なので、果たしてこれどうやって収集付けるんじゃ?という意味で続きが気にならないではないが、もうコミックスは買わないかなぁ、と思ったのだった。

*1:内気で女性的な性格の男子と、快活で男性的な性格の女子の兄妹(姉弟?)がそれぞれ異性装で貴族生活を送るという設定の平安文学。まだ読んでいないので詳しくは知らない

*2:「タイの性別は進んでるんだよ!」みたいな文でめちゃくちゃ細かく無駄に分類している画像のツイートがたまに回ってくるが、あれなどは2と3をゴッチャにしている分かりやすい例だと思う。実際にタイがそうなのかガセかは知らない。

*3:「性愛」という単語自体恋愛感情と性欲をセットに考えているのでたまに使いにくい。厳密に区別して喋ろうとすると○○ロマンティック・○○セクシャル表記がやりやすいのだが、長い。長いので私も自身のことをアセクシャルで雑に表しがちだ。

*4:異性に恋愛感情と性欲が向く人。

*5:恋愛感情と性欲をセットにしすぎな気もするが、まあおそらく性欲があった方が恋愛感情が理解しやすいというのも傾向としては正しいのだと思う……